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2022年度 部員の声

有志部員達が、色々書いてくれました。
​ぜひ全部読んでくださいね!!!(たまに更新されます)

58期 鶴岡靖朗
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58期 壬生遥乃

突然ですが、以下のような企業に対して、あなたは何を思いますか?

 

3年後の退職が確定している新入社員の教育に、全力を捧げる企業。

金銭的価値をほぼ生み出さない事業に、多大なコストを割く企業。

 

なんで存在しているんだ?と疑問に思うかもしれません。

非生産的だ、馬鹿げている!と頭にくるかもしれません。

面白そう、見てみたい!と興味を抱くかもしれません。

 

いずれにせよ、現代社会において、このような企業を見つけ出すことはほぼ不可能でしょう。

社会的に「無意味」だと言わざるを得ないからです。

 

ですが、私たちの所属する少林寺拳法部は、まさにそんな団体です。

 

私たちの活動は、社会的には「無意味」なのかもしれない、でも否定されない。

むしろ、たくさんの方々に応援していただいています。

 

では、なぜこのような団体が存在しているのでしょうか。

 

先に述べた通り、私たちの活動は、外部から意味を規定されていません。

だからこそ、自らが意味を創り出せる活動だと言うこともできます。

 

私自身、「何のために少林寺拳法部にいるんだろう」と悩んでいた時期もありました。

限られた大学生活を、将来役に立つかも分からない少林寺拳法に費やして良いのだろうか?と思っていました。

 

それでも今は、自分がこの部活で活動する意味を、明確に抱いています。

 

第一に、お世話になった大好きな先輩方に、成長した姿を見せること。

「壬生もここまでになったかあ」と感動してもらいたい、それが恩返しになると考えています。

第二に、後輩たちのモチベーターとなること。

私はもともと筋金入りの運動音痴で、運動部未経験の状態から少林寺拳法部に飛び込みました。

「壬生先輩があんな風になってるんだ、自分にできないはずがない」と勇気づけられる存在を目指しています。

 

限られた大学生活だからこそ、今しかできない「無意味なこと」に全力を注ぐ。

皆さんがこの少林寺拳法部で、その「意味」を見出してくれることを、心待ちにしています。

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60期 濱坂美希

この春、東京大学に合格された皆さん、また東大少林寺拳法部に興味を持ってこのページを見てくださっている皆さん、こんにちは。

私は今年の四月で二年生になります。少林寺拳法は大学に入ってから始めたため、ちょうど始めてから一年ほどが経過したところです。

 

ところで、皆さんは少林寺拳法の演武や運用法を見てどのような感想をお持ちになったでしょうか。(まだご覧になったことがない方は公式SNSからぜひご覧ください。)人によってさまざまな感想をお持ちになると思いますが、「自分がこんな風に蹴れるのかな」「入部したとしても、黒帯の先輩みたいにキレのある動きが出来るようになるのかな」と思った方もいらっしゃるのではないでしょうか。

 

私も入部当初はそう思っていました。今まで18年間生きてきて、武道を習ったことはなかったですし、ましてや人を殴ったり蹴ったりしたことはなかったからです。私が大学に入るまでに頑張ってきたことと言えば、小3で受験を始めてから常に傍らにあった勉強・習い事でずっと続けているピアノ・中高の部活でやっていた卓球くらいでしょうか。いくら世界史の知識が頭に入っていたとしても、いくら難しいピアノ曲が弾けたとしても、いくら鋭いスマッシュが打てたとしても、武道を始めるということは「今までにはやったことのない全く新しいことをゼロから習う」ことだと考えていました。

しかし、実際入部して少林寺拳法を始めると、その考え方はすぐに覆されました。例えば少林寺拳法では、突きや蹴りを出すときに軸を作るという動きが基本となります。具体的には右手で突くときは左足に軸を作るということですが、この動きは卓球と非常に似ています。また、強い突きを出したいときは、常に手を力ませるのではなく、基本的には脱力してインパクトの瞬間のみ力を入れる点がポイントなのですが、この原理は音を響かせたいときのピアノの弾き方と全く同じです。さらに、この部では大会に向けて自分の技を磨いていくというのが活動の主軸となりますが、出来るようになるまで繰り返す・自分に足りない点を分析するという力は受験勉強を経て身に付いたものが、そのまま生きていると感じます。

 

このように、少林寺拳法と全く関係のないものでも、意外と共通点は見つかるものです。ですから、今まで少林寺拳法とは無縁の生活を送ってきた人でも、これまでの人生で身に付けてきたことが何らかの形で生きることは間違いありません。

初め、入部したとして上手くなれるだろうかと不安に思っていた方も、ここまで読めば多少その不安が解消されたのではないでしょうか。黒帯と聞くと手が届かない武道の達人のような響きがしますが、この部活では週三回、一回二時間の練習を真面目に行えば、二年後には黒帯を取得することができます。また、OBOG含め、個性豊かで後輩思いの素敵な先輩方ばかりです。皆さんもこの部活で大学四年間を充実したものにしませんか。一緒に心身ともに強い人間になりましょう。

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58_鶴岡
58_落合
58_伊藤

58期 伊藤直毅

「渾身」という言葉がある。中高のころはこの言葉が好きだった(今も好きかもしれない)。少年漫画が好きだったせいかもしれない。主人公がボスを倒すために全身全霊の力を使って放つ大技なんてものは漫画が一番盛り上がる瞬間の一種だろう。ただ、最近になって「渾身」というものがさほどいいものではないのかも知れないという悟りを、少林寺拳法を通して得つつある。そのことについてこの記事では書いていこうと思う。

少林寺拳法は徒手空拳の武道なので当然蹴りの練習がある。ここで、強い蹴りを放ちたいと誰かが願っているとしよう。何となく全身の力を動員すればよさそうな気がするので、とりあえず自分が思う全身の力をこめて「渾身」の蹴りを放っていたのが入部当初の白帯を巻いていた僕である。結果的に意外と大した蹴りは放てず「まだまだ練習が足りないんだな」と考えてもっと頑張ろうと思うわけである。だが、そのまま頑張ってもなかなか蹴りの威力というものは上がっていかない。そもそも渾身の蹴りなので結構疲れるしたまにすっころぶしでだんだん練習が面倒くさくなっていくわけである。

ここでやる気がなくなってサンドバッグをなんとなく何も考えずに、遊びの要領で蹴ってみる。なぜかは知らないがまじめな練習中よりはるかに重く鋭い蹴りが放たれるという場面は実は珍しくない。しかも別に渾身を込めているわけでもないので疲れないしバランスを崩したりすることもない。

ここから導かれる結論は「適当に蹴ったほうがいい蹴りになる」である。いやさすがにこれはよくなさそうだ。ここで少し考えを深めてみると、「全身に力が入っていなくて脱力の状態にあった」「適当に蹴ったから体が自然な形で動いた」あたりが威力向上の理由として考察されるわけである。ちょっと強引な飛躍のあるまとめになるのだが、「体に余裕があったため無理のない動きができた」ということがうまくいったことの秘訣であった可能性があるわけだ。

また、少林寺拳法そのものが護身術であるという観点から話してみよう。自身の身が守られれば十分なのが護身術なわけであり、渾身の必殺で自身が体勢を崩すなどは言語道断で、常に安定した余力ある状態を保つほうが望ましいわけである。また、余裕があるから敵対している相手の動きに柔軟に対応できるわけであり、ひとつのことでいっぱいいっぱいになっているのは武的によくない。

少林寺拳法を離れてテストという場面について考察したい。なんだかんだ数学が一番わかりやすいので数学を例にするのだが、我々はいわゆるケアレスミスというものをする。これは仕方ない。ケアレスミスを減らすためにはどうすればいいのだろうか。個々人で意見はあるだろうが僕は「余裕があればケアレスミスは減る」という考え方を当時していた気がする。情報整理や方針設計、計算など多くのタスクが課される環境下で、脳のリソースがいっぱいになってしまって余裕がない状態になると計算ミスは誘発されやすい(と思う)。余裕を作るために方針を明確に整理したり余計なことを考えなくていいよう紙に後で考えることをまとめておくなどの工夫をしたりするのはいい手立てのように感じる。あれ、でもこの場面では渾身は必ずしも否定できないな…。

いかんせん上述したように、当たり前のことではあるが余裕があるというのはものごとをうまく進めていくうえでとても大事なことのようである。長くなるのでアナロジーからの論理を飛躍させるが、余裕があるからこそフルスペックが発揮できる(いい蹴りが放てる)わけであり、余裕があるからこそ物事にものごとに柔軟に対応できる(相手の動きに対応ができる)わけである。余裕のある大人になりたいものだなあ。

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59期 渡邊光貴

少林寺拳法の技にはそれぞれ正しいとされる身体の動きがあります。その理想の動きを自分の身体で再現するために練習するわけですが、なかなか思い通りに身体を動かせないこともあります。例えば私の場合、蹴りをすると蹴っていない方の足が伸び上がってしまう癖があります。そこで私は「足が伸び上がらないようにしよう」と思いながら練習をしますが、改善の兆しは一向に見られませんでした。そんな時、「蹴る時に腕を振りすぎないように」との助言をいただきました。そしてそのように実際蹴ってみると、驚くほど動きが良くなったのです。振りすぎた腕につられる形で足が伸び上がっていたようでした。とはいえ、腕への意識を変えることで足の動きが変わるというのは不思議な感覚でした。身体にXという出力をさせようとひたすらXを入力しても上手く行かない。そこでYを入力してみると、身体というブラックボックスを経て思いがけずXが出てくる。自分を騙すような気持ちで身体の動きと向き合うわけです。掴みきれない身体感覚をなんとか自分の言葉で捉え、身体を動かしてみて、また分からなくなって…。自分と自分の身体感覚との間の距離を少しずつ詰めていく地道な作業にこそ、少林寺拳法の楽しさがあるのだと私は思います。

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